さらば、映画研究部

 

2019年10月26日、春日井高校同窓会55周年記念事業 映画「シンプルギフト 」にお越しいただいたみなさま、どうもありがとうございました。

春日井高校の映画研究部の歴史

40年ほど前の春日井高校に映画研究部という部活があった。記憶が定かでないが同好会であったかもしれない。
自分にとって映画研究部というのは何をするかというと「ただ映画を見る」クラブだった。
そう、タダで映画を見る会なのだ。

当時、愛知県高校生映画連盟という団体があり、この団体に春日井高校も所属していた。
そして映画会社は新作映画を劇場公開する際に、作品の格付けの宣伝効果のため「アカデミー賞受賞作品」とか「キネマ旬報ベスト1作品」とかの肩書きを利用して新聞、テレビで宣伝した。そのローカル版の格付けが「愛知県高校生映画連盟」だった。
内容は、新作映画を劇場で封切る前に各高校映画研究部の生徒を対象に試写会を行い、上映後に「推薦」「選定」などを挙手による多数決で採択するという方法だった。
試写室の場所は名古屋駅にあった松竹、伏見駅の東宝、東映などの試写室で行われた。
試写室は30席ほどの小さな部屋であったため、各高校の映研部の生徒は1名だけしか入場できなかった。そのため話題作の映画、試写状は取り合いで観に行ったという。

 

 

昭和の映画の時代

春日井高校の映画研究部への試写会の案内は、名古屋市内の高校が優先であったにもかかわらず旭丘高校の分校であった本校には名古屋市内の高校と同様に試写会の案内状が送られてきた。
名古屋市内から通学する暇な生徒というわけで、先生は「お前行け」と言って試写状をくれた。
授業が終わってから名古屋市内の試写室にいそいそと映画を観に行くことが日常となった僕は試験勉強もそっちのけで映画三昧だった。当時はビデオもDVDも無い時代である。
「ロッキー」、「八甲田山」、「幸福の黄色いハンカチ」「007私を愛したスパイ」「獄門島」「未知との遭遇」「野生の証明」など邦画、洋画問わず片っ端から観た。

そんな気楽な高校生活を送っていた高二の新学期に1年後輩の平野君は、映画研究部に入部してきた。
平野君は名古屋市内から春日井高校に通っている真面目な生徒だった。「どんな映画が好みか?」を尋ねると、フェリーニの「道」、ヴィスコンティの「山猫」、ベルイマン「仮面/ペルソナ」ほかいままで聞いたこともない作家の作品を挙げて熱く語っていた。
「なんじゃ!そりゃあ!」である。映画といえば、ブルース・リー、ジャッキー・チェンなどのアクション、カンフーものか「エクソシスト」「オーメン」などのホラーか、「八つ墓村」を文芸作品と思っていた自分にとって平野君のお勧めする作品は、次元の違うレベルであった。
その後、平野君の勧めでベルイマンの「叫びとささやき」やトリュフォーの「アメリカの夜」、リバイバルでゴダールの映画を観た。
邦画も黒澤作品や小津作品、ATG作品も見た。
世の中にはこんな映画もあるんだ。
平野君に教えてもらった。
そして3年の2学期も後半になると、受験で映画どころではなくなり映画研究部から次第に足が遠ざかり自然退部となった。
大学を卒業して外資系映画会社の宣伝の仕事についた僕は、春日井高校映画研究部のことも平野君のことも忘れていた。
「バットマン」「ダイハード」ディズニーの「美女と野獣」などのメジャー作品を担当していた僕にあるとき配給会社の支社長からマイナー作品だがビデオ公開前にどこか劇場公開できないかと相談があった。

 

 

名古屋シネマテークを支えた春日井高校同窓生

作品は、デヴィッド・バーンの「トゥルーストーリー」というタイトルだった。
トーキング・ヘッズのファンだった私は、興味を持って公開してくれる劇場を探したのだが名古屋駅前の映画館では全て断られた。
そして唯一、劇場公開してくれるという連絡があったのが今池の「名古屋シネマテーク」というアート系ミニシアターだった。
ポスターなどの宣伝材料を持って劇場を訪れて私は驚いた。
「名古屋シネマテーク」の支配人は、前社長から劇場を受け継いだ平野君だったのだ。
「先輩お久しぶりです。」と挨拶されてびっくりして経過を訪ねた。

高校を卒業した平野君は、南山大学に入学後、映画が好きで名古屋のシネアシストに入り、当時同好会であった「名古屋シネマテーク」に入会した。
しかし「名古屋シネマテーク」の経営は厳しく、平野君は廃品回収のバイトをして劇場を支えていたという。
映画「トゥルーストーリー」をヒットさせたかった私は、当時、駅前の量販店の宣伝部の先輩を頼って映画のスポンサーになって欲しいとお願いした。
先輩は、量販店のお客様招待の試写会を条件にバーターで1000枚分の「シネマテーク」の前売り券を買ってくれた。
その後、名古屋シネマテークは、名古屋、東海地区における芸術映画、文化映画上映劇場の草分け的存在となり新聞にも度々取り上げられた。

 

 

園子温監督作品、東京渋谷のワタリウム美術館では、本作に関連した「園子温展 ひそひそ星」と、かなりのクラシック音楽通だった平野君の選定した作品『もしも建物が話せたら』(ベルリン・フィルハーモニー編)もシネマテークで公開

映画文化を通じて日本だけでなく世界の作家と親交

また、今では有名な豊橋出身の映画監督の園子温監督もかつては名古屋シネマテークの常連で劇場内で寝泊まりしていたこともあったという。他にもアニメ映画の山村浩二監督やアート映画の山下敦弘監督も常連だったという。
苦労して文芸アート系作品やヨーロッパ、南米の映画を上映し続けてきた平野君は、経済的には大変だったが映画を生業とする夢を実現できたことは本当に幸せそうだった。

そんな名古屋シネマテークで昨年2018年秋、東京で公開された「シンプルギフト」が名古屋地区で初めて劇場公開される予定があったという。
春日井高校卒業生の監督映画作品が春日井高校卒業生の映画館で上映される、そんな夢のような話が実現する話が進められようとした矢先、平野君は病気で倒れた。

 

今年、2019年の1月、平野君は帰らぬ人となった。享年57歳。
訃報とともに平野君の追悼記事は中日新聞、朝日新聞、毎日新聞などで紹介された。
東京、横浜、大阪など全国主要都市で劇場公開された話題作「シンプルギフト」は名古屋市内ではまだ劇場公開されていない。(2019年9月現在)
今年、10月に春日井高校同窓会55周年記念事業として映画「シンプルギフト 」は、名古屋市内で初めて大きなスクリーンで上映された。
平野君も天国できっと喜んで観てくれたと思う。

<参考サイト>
中日新聞「達人に訊け」

朝日新聞デジタル

毎日新聞「若すぎる死を悼む