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前畑秀子選手の思い出

 
1932年ロス五輪の前畑秀子選手と前畑選手を演じる上白石萌歌さん

日本女子選手初の金メダリスト、前畑秀子選手

令和元年のNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」がいよいよ新章に突入しました。
第1部の日本人として初めてオリンピックに参加した金栗四三選手を中心とした話から、
第2部の初めて日本でオリンピックを開催するまでを描く田畑政治編へと移りました。
さらに物語で話題となるオリンピック競技種目がマラソンをはじめとする陸上競技から水泳競技にフォーカスされました。
今回、ドラマで新しく登場するのがあの「ガンバレ!前畑!」で有名な日本女子初の金メダリストとなった前畑秀子選手です。

1914年大正3年和歌山県生まれの前畑選手は、天性の素質を生かし名古屋の椙山女学校に編入したのち、1932年のロサンゼルスオリンピックで200M平泳ぎで銀メダル獲得、そして1936年のベルリンオリンピックでついに日本女子選手初の金メダルを獲得しました。

選手を引退した後も、後進の育成に活躍し、1977年にベルリンで当時のライバル、ドイツのゲネンゲル選手と再会し、二人は一緒にプールで50mを泳いだそうです。

 
前畑選手とドイツのゲネンゲル選手、ふたりは41年ぶりにベルリンで再開しいっしょに泳いだ。

講演会「苦闘15年」の講師として来校

その翌年の1978年(昭和53年)10月に前畑秀子選手は、講師として春日井高校にいらっしゃいました。
結婚されて兵藤姓となった兵藤秀子氏は、「苦闘15年」という演題で春日井高校体育館で講演されました。

当時、高校3年であった私は兵藤秀子氏(前畑秀子氏)をまったく知リませんでした。
ただ、64歳とは思えないピンと背筋を伸ばして、一生懸命に話す姿は今でも記憶に残っています。

「苦闘15年」が水泳を始めてから金メダルを獲るまでなのか、それともメダルを獲ってからなのか記憶にはありませんが、前人未踏の記録を打ち立てた方の生き様は高校生ながら胸に刻まれています。
苦難に向かって勇気をもって立ち向かうこと、
世界というグローバルな視野で行動すること、
後輩の方をはじめ未来を担う子どもたちのためにできることをする。
そのようなことを教えていただいた気がします。
学生当時は気にもかけていませんでしたが、いまあらためて思い出されました。

本校で講演された5年後、69歳の兵藤氏は、脳溢血で倒れましたがリハビリの努力で再びプールに復帰しました。
その後も子どもたちの水泳指導をはじめとする女子水泳の普及をつづけた兵藤(前畑)秀子氏は、1995年急性腎不全で80歳で亡くなりました。
 
水泳でこどもたちを指導する兵藤氏とベルリンオリンピックの思い出

前畑氏自身の言葉

私の人生のささやかなモットーは、自分で決めたことは真正面からぶつかって行って、納得するまでやり通すことです。
そうしなければ悔いが残るし、なにごとも成功しない。
私はそう思います。わが半生を振り返ってみると、やはりベルリン大会の金メダルが、私の人生のハイライトでした。ですから、苦しいとき、悲しいとき、かならず立ち戻るのは半世紀前のベルリン大会です。
たとえば、主人を突然失い、女手ひとつで子どもを育てなければならなくなったとき、脳溢血で倒れ、苦しいリハビリの壁に直面したとき、私を支えたのはやはり金メダルでした。
「あの栄光をつかむために、秀子おまえはどんな苦しい練習にも耐えてきたじゃないか」こう言いきかせると、再び勇気がわいてきます。
そして、どこからともなく「前畑ガンバレ!」の声が聞こえてきました。

「私には、苦しさや困難を克服するたびに喜んでくれる大勢の人がいる。みなさんに喜んでもらうことこそが私の喜びだ」

私は水泳を通じてそう教えられました。私は多くの人たちの愛に支えられた「前畑秀子の人生」に心から感謝して、今後も精一杯生かさせて頂きたいと思います。 - 兵藤(前畑)秀子 -

母校の椙山女学園高校には前畑選手とともにベルリンオリンピックに出場した二つ後輩の小島一枝選手の水着姿の銅像があります。

 
前畑選手と小島選手の銅像(名古屋 椙山女学園中学・高校)

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